Duality

自己表現 本 考え 生き方について

夢を持つと「楽」に生きられる

「夢とか、目標とか、やりたい事を持て!」みたいなのって。

自分の日々の行動の判断基準をつくり、生きやすくするためなんだと思います。

自由を欲していながら、その自由な時間を何に使ったらいいか分からない。大学生活とかまさに自由という刑に、、なんたらみたいな期間だと思うんですが、いや人生そのものが、大人も同じようなもんだとと思いました。

 

たぶん一生迷いながら生きないといけない訳です。

大きなイベントはあるにせよ、日々の小さな事から、生きる目的みたいな漠然とした物まで幅がありすぎる。そこで、何からなにまで無意識なり意識なりが選択していて、その選択に実にエネルギーがいる。たぶん、選択するエネルギーの消耗で疲れてしまって、こんなに意味分からず疲れるなら、何か目標なり、夢があってそれに向かうことにエネルギーを費やす方が有意義なのではないか。

 

同じ生きるなら、生きる事は疲れることなら、どうせ生きるなら有意義な疲れを感じたい。筋トレや、マラソン後の爽快感のある疲れ、ああいう疲れ。体は疲れているけど、すぐに横になりたいけど、なぜかこころがすっきりしているあの疲れ。人間あの疲れが快感なんじゃないだろうか。

 

経営者がアイアンマンレースとかにはまる理由ってなんか分かる気がします。ペース配分を計算し、目まぐるしく状況がかわるスピーディーなレース展開、頭も使いながら同時に体も使う。あれが病みつきになるんでしょう。

こころと身体はつながっているというけど、まさにそうで、頭だけでもだめで、身体だけでもだめ。両方をうまく回さないとどちらかに負担がかかって、両方をつなぐシャフトみたいなのが悲鳴をあげる。

二つの車輪が同じスピードでまわっている時はいいんだけど、片方のスピードがあがるとバランスがくるって方向がぶれはじめる。時期に徐々にシャフトが歪みはじめる。少々のことでは折れないけど、なんとかバランスをとろうとして過食をしたり、アルコールにはしってしまったり、なにかしらの依存症やらになる。

嗜癖は一概に悪いことではない。自分自身がバランスを取ろうと必死に頑張っているのだ。そうするしかないほどに追い込まれつつも生きようとしている証拠だ、嗜癖を嗜癖ただそれだけの事象として扱ってはならない。

心の体も疲れ切った時、自分の人生を振り返って挑戦してこなかった。ささやかでも夢みたいな、小さな事でも挑戦してこなかった。楽に楽に惰性に流される事への罪悪感や葛藤もあった、だが一方で世間の波をうまく乗りこなしているつもりでもあった。それが、自分の人生の一つ一つ積み重ねてきた末がこの今の状況か。

あー、たらればではないが、もし夢にやぶれてこうなるなら今の自分に誇りを持てたのではないか。今の状況に納得できる生き方を、より納得できるであろう生き方をする。そのために夢を持つことは大切な気がする。夢を持つ順番が違うかもしれない。けど矛盾があるのが人間だ。二重性の中で生きていくしかない。